「同音異義語(ホモニム)は一つの言葉だった」という話がとても興味深い

漢字があるから日本語が同音異義語という曖昧さを防ぐ手段となっていると思っていたのですが、どうやらそんなに単純な物では無かったみたいです。

すごいよ、日本語!!

これから紹介するブログの著者(管理者は別)金谷武洋さんは素晴らしい経歴の持ち主で(プロフィール)ブログでは非常に面白い「日本語について」を執筆されております。

その一部をお借りして私の考えを訂正します。

実は同音異義語ではなかった

驚きな見出しですが、「花・鼻」「橋・箸・端」「話す・放す・離す」・・・は元来同音同義語だと言う事らしいのです。

空に水が溜まっているという宇宙水神話が世界各地にあり、日本ではそれを「あま」と呼んでいた。それが天空にある時は「天の原、天の川」の「あま」であり、降り出したら「雨足、雨模様」の「あま」となり、地上に広く溜まった所が「海女・海人」の「あま」なのである。見事に繋がっていたこれらのものが「天・雨・海」と書き分けられて、その連続性が切断されてしまったのは文化的損失と言わなくてはならない。

金谷武洋の『日本語に主語はいらない』 | 第41回 「切る言葉、繋ぐ言葉」(「ひらがなでよめばわかる日本語のふしぎ/中西進」より金谷武洋さんが抜粋)

続いてこんな事も仰っています。

「はな・はし・はなす・あま」とそれぞれ発音される言葉たちは、実は同音異義語ではなかった。漢字で書き分ける便利さの勢いに呑みこまれてしまった、同音同義語、つまり一つの言葉だったのである。

今まで「同音異義語を区別する為に、漢字は便利」と思っていたのですが、「漢字は同音同義語の連続性を切断し、文化的損失を生んでいる」という驚きの視点です。

違う切り口で「漢字」という物を考えると、良い面だけではなかった事が伺えます。

精神分析医河合は、西洋人と日本人の自我を比較してこう言う。「他と区別し自立したものとして形成されている西洋人の自我は日本人にとって脅威であります。日本人は他との一体感的な繋がりを前提とし、それを切ることなく自我を形成します。(…)非常に抽象的に言えば、西洋人の自我は「切断」する力が強く、何かにつけて区別し分離していくのに対して、日本人の自我は出来るだけ「切断」せず「包含」することに耐える強さをもつと言えるでしょう」

と、西洋文化の影響があったのかもしれない、と考察されております。

さらに

結婚式などでは特に「切る、別れる」などの言葉が避けられる。先に述べた「はし(橋・箸・端)」から出た行為の動詞は「はさむ(挟む)」であろうが、「切る」道具をすら「はさみ(鋏)」と呼ぶところにも、こうした日本人の言語意識が伺えないだろうか。

日本人ってなんて繊細だったのでしょうか。

意識せずに使っている言葉にこんなにも含みがあることに感動しました。

2コメント
  1. たき

    金谷です。ネットを検索していて貴サイトに漂着致しました。

    私のブログや拙著を好意的にご紹介下さって光栄です。ご声援に感謝します。

    今後ともよろしくお願い致します。

    1. ゆいちょん

      コメントありがとうございます。

      私は日本語(語学)について特別な勉学を専攻してきたわけではないので、金谷さんのお話はとても興味深く、そして驚きや感動を与えられております。

      益々のご活躍、期待しております。

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